鵠沼海岸2丁目です。下の地図の赤枠で囲ったエリアです。

 2丁目には、海岸から小田急線沿いまでの割と広いエリアの中に、いろいろ盛りだくさんの見所があります。なんと言ってもその代表は、東屋旅館でしょう。

 東屋旅館は、「鵠沼海岸開拓の祖」といわれる伊藤将行が、明治20年代末に開業したもので、明治・大正期の文学界を彩る様々な作家・文化人たちが居留しました。その代表は芥川龍之介・武者小路実篤・志賀直哉・岸田劉生らになるでしょう。関東大震災で壊滅的な打撃を受けた東屋は、昭和初期に廃業しますが、戦後(昭和25年)、伊藤将行の養子である伊藤将治氏が、「料亭東家」を、同じく2丁目の東屋旅館があった少し西側に開業しました。この料亭は、平成7年暮れまで営業していましたが、晩年は、県内でも最後まで残った本格的割烹料亭の1つとして有名でした。付近は、今なお松林が残り、当時の鵠沼海岸の雰囲気を多少なりとも彷彿させてくれます。

 そして2001年3月、かつて東屋旅館の正門だった場所に、藤沢市により東屋跡の碑が建立されました。
 
 →こちらをご覧下さい。(桃色字の部分は、2001.3.24.追記および展示替・追加展示。2005.12.3.東屋裏門遺構の項を追加。)

 他にも2丁目には、中国国歌「義勇軍行進曲」作曲者、聶耳(ニエアル)の記念碑が海岸に建ち、また鵠沼海岸の玄関口である小田急江ノ島線鵠沼海岸駅や、鵠沼銀座商店街の東半分、藤沢市民交響楽団の練習場である鵠沼公民館があったりと、鵠沼海岸を代表する「モノ」が、このエリアには点在しています。

それでは、2丁目のご紹介です♪(99.11.10.聶耳碑と公民館の風景を展示替え、一部追記しました。)

A地点です。
 2丁目は、引地川河口部で少しだけ海岸に面していますが、この部分にあるのが聶耳(ニエアル)記念碑です(奥に見えるのがそうです)。

 聶耳は、現在の中華人民共和国の国歌「義勇軍行進曲」を作曲した人です。1935年、日本に遊びに来ていた聶耳は、ここ鵠沼海岸の海で遊泳中遭難し、亡くなりました。享年22才と、短い一生でした。
 この聶耳の業績を尊び、日中友好の礎とすべく、戦後ここに記念碑が建てられたのです。現在の碑は1986年に新しく立て直されたものですが、心ない人によりせっかくの碑に落書きされる事件が起きたため、ご覧のようにカバーが掛けられています。ここだけでなく、海岸付近はあちこちの建築物にスプレーペイントで落書きされるいたずらが多発していて、非常に残念です。
(藤沢市長による説明文はこちら)

   
B地点、引地川河口の風景です。この右手に、上でご紹介した聶耳記念碑があります。

 用水路のようなものが見えますが、これは、鵠沼海岸5丁目付近から流れてきた堀川と、引地川旧流(旧河口)のなごりです。
 この風景は、水路に架かる渚橋という橋の上から撮影していますが、旧流がかつての名残をとどめているのは、この付近だけです。現在、大部分の区間は暗渠化されてしまい、5丁目付近に至っては埋め立てられてしまっています。今ここに流れているのは、海水の逆流と、雨水じゃないかと思います。

 引地川は、かつて暴れ川の異名をとるほど頻繁に氾濫した川で、特に蛇行した下流部は、治水事業の繰り返しだったようです。現在はそうしたことも影を潜めたようですが、この旧流は、その時分の名残を今にとどめる、貴重な遺産といえるでしょう。

   

C地点です。
 現在は何ということもない、住宅地の風景ですが、平成7年まで、ここに割烹料亭「東家」がありました。

 上に書いたとおり料亭東家は、東屋旅館を開業した伊藤将行の養子、伊藤将治氏が、戦後開業したものです。由緒ある名門料亭としてその名を知られ、宴会シーズンにはよく黒塗りの高級車が何台も東家の駐車場に止まっていたのを、私も覚えています。私の知人はこの東家の宴席に列席したことがあるそうですが、この人の話によると、東家のおかみさんの采配は、手慣れていて見事だったそうです。
 できることなら私がそうしたお席にお呼ばれする年になるまで、東家が残っていてくれたら良かったのですが・・・(笑)。今ではかなわぬこととなってしまいました。画面右手は、その伊藤将治氏の家の門です。

 また、画面中央の青い車の左上に白いログハウスっぽい建物が見えますが、これは藤沢で一番はじめ(昭和49年)にできた特別養護老人ホーム「鵠生園」です。社会福祉法人上村鵠生会の運営です。
 ここはデイサービスへの先駆的取り組みで知られ、6丁目の項でご紹介する「湘南なぎさ荘」でも、デイサービス事業を展開しています。

   
D地点です。

 画面中央やや左手寄りに門柱が写っていますが、これこそ、東屋旅館の貴重な遺産の一つです。関東大震災で大きな被害を受けた東屋は、若干規模を縮小して営業を再開しましたが、そのとき作られた裏門の門柱が、これなのです。
 門柱は最近まで、向かって右側にも残っていましたが、現在はこの1本だけが残ります(右側の地面には、かつての柱の跡が見えると思います)。また門の部分の舗装も、現在まで石畳で残っています。

 ここから奥に入っていくと、現在は普通の住宅が建ち並んでいますが、その中に、かつての東屋の名残と思われる建築物を、2,3見つけることができます。

 2005年春、宅地開発によりこの裏門門柱は撤去されてしまいましたが、同年6月、下でご紹介している鵠沼公民館の裏庭に移設されました。
 そして撤去跡には、裏門門柱があったことを示すプレートが埋め込まれました(こちらをご覧ください)。 (2005.12.3追記)

   

E地点、鵠沼銀座商店街、東側の一風景です。

 3丁目の項でも述べますが、鵠沼銀座は小田急鵠沼海岸駅を中心に東西に広がる商店街で、1990年代前半に、舗装をきれいに整備し、マリンロードという愛称と共にリフレッシュしています。どちらかというと西側(3丁目側)の方が賑わっているといえ、東側(2丁目側)は空き地や空き店舗がやや目立つ感じです。こちら側にあった、地元では老舗のやまかストアというスーパーは、数年前に撤退しました(現在は美容院になっています)。

 画面右手にレトロな家が写っていますが、この家は芥川龍之介が、自身の東屋滞在経験をもとに書いた小説「歯車」で、「或理髪店の主人」というくだりで言及している理髪店です。
 昭和初期から、当時のままの建物で営業を続けているわけで、非常に貴重な存在だと思います。

   
F地点、鵠沼銀座商店街の中央部です。

 鵠沼海岸駅は、この手前すぐ近くです。この付近は、夏は海岸にある小田急鵠沼プールガーデン(2000年夏をもって営業終了)へ行く人や、サーファーなどで賑わいます。そのため、夏場は店の店頭にビーチサンダルや浮き輪などが並び、海辺の雰囲気を盛り上げます。またサーフショップも海辺を中心に、ここ銀座通りなどでも見かけます。

 あと、この付近は小さな飲食店が多くあり、なかなかおいしい料理を食べさせてくれます。例えば、左側に写っているイタリア料理店「バルバ」は、パスタ類もおいしいですが、ソフトクリームがなかなかの絶品です(ちゃんと看板も出ていますね)。

   

G地点、小田急江ノ島線の鵠沼海岸駅です。鵠沼銀座商店街から少し入ったところにあります。路地の奥に引っ込んだ所にある駅って、生活に密着した感じがして、私は好きです。

 鵠沼海岸に小田急線が開通したのは、昭和4年のことです。当初小田急は藤沢ではなく、辻堂を経由して江ノ島まで敷設する予定だったそうです。もしそうなっていたら、鵠沼海岸駅も今とは違う場所にできていたかも知れません。現在の小田急線は鵠沼海岸と本鵠沼の間に大きなカーブがありますが、これがその名残だという説もあります。

 鵠沼海岸は急行停車駅ですが、最近、朝ラッシュ時に10両編成の急行が運転されるようになりました。この急行は、鵠沼海岸とお隣の本鵠沼は6両編成の電車しか止まれないため、通過してしまいます。藤沢で10両編成の電車の分割併合を行って、急行は藤沢から10両編成にするようにすれば、この両駅にも従来通り急行が止まれるようになるのに、と思います。たぶん、今後10両編成の急行は増えて行くでしょうから、なおのことこのようにして欲しいものです。

 ところで商店街だけでなく、この駅前にもいい店があります。ここでは、作りたてのパンがおいしい「モンタボー」(画面右手、ちょっと見えませんが)、インターネットカフェの「アイ・オー・カフェ」(左手にある黄土色のビル2階)、江ノ島の地魚がおいしい居酒屋「やしち」(左手奥)などを、私の独断と偏見でご紹介しておきます!

   
H地点、鵠沼公民館です。桜の花が満開の、春の情景です。

 藤沢は公民館活動が盛んな地ですが、鵠沼公民館にもたくさんのサークルがあり、活発に活動しています。なかでも特筆すべきは、藤沢市民交響楽団の練習場が、ここ鵠沼公民館であることです。
 藤沢市民交響楽団は、あの「藤沢市民オペラ」のオーケストラであり、世界的知名度を有するオペラの伴奏を市民レベルの管弦楽がつとめるという、まれな例です(最も、このオケの腕前は、ほとんどプロ級に達していますが)。

 藤沢市民オペラは合唱も市民がつとめ、歌手は主にオーディション(藤沢オペラコンクール)による選考と、市民参加度の高いオペラですが、芸術的レベルは、この種のものとしては日本でもトップクラスにあります。
 現在、芸術監督を畑中良輔氏(新国立劇場芸術監督。日本音楽界の重鎮の一人。)、指揮者を若杉弘氏(ヨーロッパの名だたるオペラハウスの芸術監督を歴任。現在の日本を代表する国際的指揮者の一人。)がつとめ、ロッシーニ最後の歌劇「ウィリアム・テル」日本初演(1983年)や、ワーグナーの歌劇「リエンツィ」の同じく日本初演(1998年)を成し遂げるなど、オペラ界に輝かしい地位を築いており、これまでに数々の音楽賞を受賞しています。

 藤沢は、松本、水戸などと並ぶ、日本を代表する音楽都市と言えるでしょう。

最後に。
 この項をまとめるにあたり、高三啓輔著「鵠沼・東屋旅館物語」(博文館新社刊)を参考にしました。

鵠沼海岸1丁目に行く  鵠沼海岸3丁目に行く  ホームへ戻る