かっしーの家別館 過去の湘南二都物語プロローグ

さらば白木屋!

− 1999年1月31日、東急百貨店日本橋店 閉店 −

 現在日本は、戦後最悪とも言われる未曾有の不況のまっただ中にあります。そんな中、これまでの常識では考えられなかったよ うなことが、次々と経済界では起こってきました。北海道拓殖銀行や山一証券の倒産、深刻な雇用不安とリストラの進展、破産寸前の 自治体財政。そして今また、象徴的な出来事が起きようとしています。

 創業336年の老舗、白木屋(東急百貨店日本橋店)が、いま、その歴史を閉じようとしているのです。

 白木屋は、寛文2年(1662年)、お江戸日本橋のこの地に創業しました。それから3世紀、時代は江戸、明治、大正と移 り変わりますが、白木屋はお客様の支持を得つつ繁栄を続け、昭和初期には百貨店としての現在の業態を確立しました。戦後もし ばらくは安定した経営でしたが、昭和30年代にはいると、五島慶太率いる東急グループの翼下に収まることとなります。そして 昭和40年代にはいると、店の名称も東急百貨店日本橋店となりました。

 もともと五島は、東京の中心地・日本橋へ東急グループの拠点を築くべく、白木屋の獲得をはかったのでしたが、現在、日本 橋界隈からはかつてのにぎわいを想像することが難しくなりつつあります。新宿、渋谷といった西側の新都心に若者は集まり、反 対に日本橋界隈からは、客足が次第に遠のいていきました。そして付近の住民の高齢化も進み、居住人口もまた、どんどん減って いったのです。中央区では、かつての日本橋のにぎわいを取り戻すきっかけになればと、今年からお正月の箱根駅伝のコースを、 帰路に限り、日本橋を経由するルートに改めました。この効果は大きく、今年のお正月には箱根駅伝の応援に、多くの人々が日本 橋を訪れました。この模様は、テレビ等でご覧になった方も多いでしょう。

 そして現在の不況は、百貨店という業態そのものの見直しをも迫っています。日本橋には、東急百貨店の他に三越本店、高島 屋東京店という、日本を代表する百貨店の老舗がありますが、この2店も、現在の経営は決して順風満帆というわけではないよう です。白木屋の閉店には、日本橋地区の凋落と、不況による百貨店業態の限界という、2つの原因があるように思います。

 1999年1月31日の閉店に向けて、東急百貨店日本橋店では大規模な売り尽くしセールを開催しました。新聞・テレビ等 で大きく報道されたこともあり、連日大勢のお客さんが詰めかける大騒ぎとなりました。特にお正月と、最後の土日には、入店規 制を行うほどの大盛況となったのです。これから紹介するのは、最終日の前日、1月30日土曜日に、東急百貨店日本橋店を訪れ たときの模様です。どうぞご覧下さい。
 なお、店内の風景は、許可を得て撮影したものです。

   
 ここが東急百貨店日本橋店です。2月1日以降、ここには巨大な空きビルが出現することになりま す。この建物の今後の利用法は、1月30日現在未定です。                              
 白木屋の名物が、この白木名水でした。白木名水のいわれは、この4枚 下にあります。                              
 店内2階から、1階売場を見下ろしたところです。

 この日は、店の外を入店客が取り巻いていました。                              

 7階では、白木屋336年の歴史を振り返る写真展が行われていまし た。                              
                               
 白木名水のいわれです。写真をクリックすると大きな画像になります。                               
 昭和7年の暮れ、ビル火災史に残る大火がここ白木屋で発生しました。 写真をクリックすると大きな画像になります(中途半端な画像ですみません!)                               
 屋上にある、白木観音を祭った祠です。閉店に当たり観音様は、浅草の 浅草寺 淡島堂(せんそうじ あわしまどう)に遷座することになりました。                               
 白木観音のいわれです。写真をクリックすると大きな画像になります。                               
 同じく屋上に祭られていた、藤吉稲荷です。白木観音と同じく閉店に当 たり、月島の住吉神社境内稲荷神社(中央区佃1丁目)に遷座することになりました。                               

 ところでなぜ、湘南の風景をご紹介する「かっしーの家」で、突然東京のど真ん中を特集したか?ということですが、実は私の父の 実家が日本橋で、私自身も小さい頃、日曜などによく家族でこの付近を訪れていたのです。昭和40年代、日本橋は本当に賑わってい ました。私の記憶でも、三越、高島屋など、本当に人が大勢いたのが印象に残っています。三越本店の屋上には野外劇場があって、そ こではよくいろんなアトラクションをやっていて賑やかだったものですが、今ではそんなことも昔話となってしまいました。

 日本橋の凋落ぶりは、当時を知る人間にとっては本当に胸が痛む出来事です。しかし、これも世の常なのかも知れません。例 えば現在の浅草は、昭和初期には東京一の繁華街でしたが、戦後には寂れてしまったように、日本橋もまた、その繁華街としての 座を渋谷、新宿といった西側に奪われていくのかも知れません。
 しかし日本橋は、道路元標があるように日本の中心として長い歴史を誇る地です。この地が寂れるのは、東京の原風景が失われ ていくことにつながるでしょう。現在、空洞化する中心市街地を何とか活性化させようと、色々な施策が実施されつつあります が、日本橋にも是非、かつての輝きを少しでも取り戻せるような策が講じられて欲しいものだと思います。         









あれから時は流れ・・・

2004年秋現在、日本橋をめぐる情勢には、あまり大きな変化は訪れていません。
しかし、あの白木屋跡地は、すっかり変貌を遂げていました。

再展示開始にあたり、いまの日本橋・白木屋跡地の模様をご覧いただきましょう。





白木屋跡地に建てられた、メリルリンチグループをキーテナントとするオフィス・商業複合ビル「コレド日本橋」です。
その斬新なフォルムは、
日本橋の、新しいランドマークとなることでしょう。

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