かっしーの家藤沢館 第6展示室
鵠沼海岸の引地川旧流跡をたず ねて
大和市の泉の森を水源に、藤沢市内を縦断して鵠沼海岸で相模湾にそそぎ込む、引地川。
現在はその穏やかな流れが、都市化した流域でほのぼのとしたムードを演出していますが、かつてその流れは、大きく蛇行を繰り返し、特に河 口付近では、たびたび氾濫を引き起こす「暴れ川」的存在でした。
鵠沼海岸は、荒れ狂う引地川の猛威に翻弄された歴史を持っています。度重なる洪水による被害、そしてその度に変わる流れのために分断され た耕地。これらの歴史を証言する遺構が、鵠沼海岸にはまだ残っています。
現在、鵠沼海岸西部には、南北に市道鵠沼海岸線、通称鵠沼新道が通っています。この鵠沼新道沿いのエリアには、かつては水田や耕地の広が る、のどかな農村風景が続いていました。鵠沼新道自体、かつての農道を昭和40年頃に現在のように整備したものです。
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こうした農地に水を引くため、この付近には細い用水路が多くあったようですが、これらの水源は引地川で、引地川には用水路取水のための堰 が昭和40年代頃まで、現在の長久保緑橋の南側にありました。鵠沼堰と呼ばれたこの取水堰付近には、現在ではカモメが水辺を舞う他は、何の痕 跡も残っていません。
鵠沼堰跡。画面の奥に見える橋が長久保緑橋です。(2005.12.17.追加展示)
これらの用水路は、通称、堀川と呼ばれていました。堀川というのは、引地川河畔に残る治水記念碑などにもその名が見え、この付近から南側 の、引地川から鵠沼新道あたりまでのエリアも、かつて堀川と呼ばれていた(鵠沼海岸7 丁目には、昔「堀川」というバス停もあった)など、広範にこの一帯にその名を残す名称です。
この堀川用水路のうちの一部が、引地川と鵠沼新道のほぼ中間をずっと南下してきて、鵠沼海岸5 丁目付近からかつての引地川旧流跡の部分を流れ、鵠沼海岸1 丁目・2 丁目の境付近(現在の国道134号線、渚橋付近)で海岸線に出ていました。
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現在は宅地化の進展に伴い、その痕跡を見つけるのも難しくなっているのですが、これからこの流れの跡を少しずつ追っていくことにしましょ う。
A地点;車庫付近
江ノ電バス鵠沼車庫付近です。まっすぐ前方に道が延びています。 この道は、鵠沼新道と引地川のちょうど真ん中あたりを平行しており、鵠沼海岸6
丁目南部に広がる住宅地を貫き、突き当たりは八部公園の正面入口となっています。 この鵠沼海岸6丁目南部の住宅地は、昭和40年代前半に東急不動産が造成・分譲したもので、それまではこの付近にも
田んぼなどの農地が広がっていました。堀川は、この付近の農地にも水を供給していたのです。 写真左側には、まだ農地が少し残っているのが見えます。この農地の中には昔懐かしい手漕ぎポンプ式の井戸があり、用 水路がなくなった後の農地に貴重な水を供給しています。 |
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B地点;車庫南側
鵠沼車庫への取り付け道路を過ぎると、堀川は斜めに流れの向きを変え、鵠沼伏見稲荷神社入口に現在も残るたいこ橋の
下をくぐって鵠沼新道を斜めに横断していました。 現在では、この付近が一番、川の跡っぽいですが、私も小さかった頃、幅1〜2メートル位の小川みたいな流れがここに
あったのを覚えています。流れの両側は、現在はマンションや家が建ち並んでいますが、当時はレンゲ畑でした。 |
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C地点;たいこ橋
鵠沼海岸5 丁目、 鵠沼伏見稲荷神社の入口にある、たいこ橋です。 現在は、この橋の下はご覧のように埋め立てられて木などが植わっており、橋は単なる飾りとしての意味しかなくなって しまいましたが、かつてはここに、本当に川が流れていたのです。これが堀川でした。 堀川は、たいこ橋を過ぎると神社前の鵠沼新道を斜めに横断して、その先は国道134号に平行する裏道に沿ってずっと 流れていました。この裏道に沿った部分の流れは、引地川旧流跡ということになるのではないかと思われるのですが、昭和 40年頃にたいこ橋の部分から先、国道134号の渚橋(鵠沼海岸2丁目)までが暗渠化され、裏道に沿った部分の旧流跡 は、裏道の拡幅や歩道の整備用地として転用されました。 暗渠化後は、たいこ橋の下に暗渠の入り口となる穴が開いていて(ちょうど写真の左手下にあった)、その中に水がちょ ろちょろと流れ込んでいるのを私も知ってますが、前述のように後年は水がほとんど干上がっており、やがて暗渠自体を殺す 工事をしているのを目撃したので、現在はこの暗渠も全然使われていないものと思われます。それで、たいこ橋の下も埋め立 ててしまったのでしょう。 |
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D地点;鵠沼海岸5丁目交差点付近
ここは、市道鵠沼海岸線と国道134号線に平行して延びる裏道が交わる、鵠沼海岸5 丁目 交差点のちょっと東側です。 この付近から堀川は、引地川旧流跡を流れていたものと思われます。 右手に見える3階建てのマンションと、左手の2階家の間が、かつての流れの跡になります。流れはここを抜けて手前の 広い歩道部分に出、ここから先はずっと裏道に沿って東の方(写真では右の方)に流れていました。 ここから先は堀川ではなく旧流と言いますが、この旧流跡は、ずっと裏道の歩道となって続いています。歩道部分の地面 下には、旧流の暗渠が埋まっているはずですが、前述のように現在はもう使われていないものと思われます。あるいは、雨水 管となっている可能性はありますが。 この裏道は、辻堂東海岸の方から延びてきていて、日の出橋で引地川を渡り、先ほどちょっと触れた鵠沼海岸5丁目交差 点で市道鵠沼海岸線と交わり、後はずっと国道134号線と平行に江ノ島海岸付近まで続いています。 そのうちほとんどの 区間は中央線のない狭い道なのですが、この旧流が残っていた区間のみ、幅員が広がってガードレールと歩道がつき、中央線 (白破線)が引かれているので、すぐここが旧流跡だな、とわかります。 |
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E地点;東屋入口
鵠沼海岸2
丁目付近の旧流跡です。相変わらず旧流跡は、道沿いにずっと続いています。 この先横断歩道があるところ(車が左折しようとしているのが見えるところ)は、かつて鵠沼海岸2丁目にあった、料亭 「東家」への入口でした。この左側の細い道に入ると、かつて東家があったところに出ます。 現在は廃業してしまい、ゆかりの方の家がある他は駐車場になってしまいましたが、この料亭東家は、明治末期から昭和
の初めにかけての頃、この付近にあった名門旅館、東屋の流れをひくものです。当時、鵠沼の東屋旅館と言えば、日本を代表
する錚々たる文化人達が逗留した、名門旅館でした。 料亭の代になっても名門であることは変わらなかったようで、私もかつて年末年始などに、黒塗りの高級車が何台も料亭
東家前に停まっていたのを目撃したことがあります。周囲を和風白壁に囲まれた、いかにも名門料亭という趣の構えで、私も
一度位は行ってみたかったものですが(笑)、残念ながら私が行く前に、廃業してしまいました(泣)。 東屋旅館に関しては、このホームページの第1展示室、「鵠沼海岸を巡って(その1)1〜3丁目」の「2
丁目」の項で触れています。 |
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F地点;鯉取橋
上でご紹介した東家入口から、更に江ノ島方に100メートルほど行った地点です。この地点で、旧流は海岸の方(画面 右側)に流れの向きを変えていました。これまで続いていたガードレール内側の歩道がなくなり、道幅もここから先は狭く なっています。 画面に見える横断歩道を渡ると、すぐ左手に水門の開閉制御板があります。薄緑色の箱のようなものがそれですが、ここ から先、これまで暗渠だった旧流が地上に姿を現します。 この水門制御板には、「鯉取橋ゲート」という名前がついています。ちょうどここに見える横断歩道部分に、旧流に架
かっていた橋があったものと思われますが、これが「鯉取橋」と呼ばれていたのでしょう。現在、橋は跡形もありませんが、
昔はここを、さぞかしきれいな水が流れていたのでしょう。 |
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(この項、2003.12.28加筆) このモノクロの写真は、このページをご覧下さった流一様がご提供下さった、昭和26年8月撮影の鯉取橋の風景です。 鯉取橋はこのような、木造の橋だったのですね。古き良き鵠沼の雰囲気がよく伝わってくる、貴重な写真だと思います。 以下に、流一様からお寄せいただいたこの風景の解説文を転記させて頂きます(お屋敷の名前を伏字にし、( )内を追記 しました)。 当時でも、旧流跡は「川」というより下水といった 方がいいくらいで、川底は真っ黒な泥で、我が家では単に「ドブ川」といっていました。鯉取橋と渚橋の間だけは自然河 川の趣があり、ここでは流れは東のF邸の石垣の下を流れ、西側は田んぼの跡で畔道が残っていました。稲を植えていた のは、昭和20年代前半まででしょう。ここならザリガニ、オタマジャクシがいて、なまずを目撃しています。 川はK邸(現在もE地点とF地点の間に残る お屋敷)の部分では、道のある南側が護岸されていな かったため、草や低い松が生えた急斜面で、谷川のような感じでした。E地点写真で車が入っていく場所は当然、昔は橋 の上です。この橋の上流側に堰があって、川の面に段差ができていました。この橋から上流は、下水溝ではなかったかと 思います。 添付した写真は、昭和26年8月撮影の鯉取橋。背後の石垣はK邸のもの。我が家では「ドンドン橋」と言っていて、 当サイトで初めて正式名称を知った次第です。写真の粗末な橋はその後、木造ですが手すり付きの橋に架け替えられま す。 流一様、貴重なお写真をご提供いただきありがとうございました。 |
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G地点;渚橋
鯉取橋ゲートのある地点から、海岸方面を眺めてみました。目の前に見える橋が、国道134号線に架かる渚橋です。 上で述べたように、ここから旧流の流れが残っています。ただ現在ここにある水は、鯉取橋や渚橋という名前から連想さ
れるのとはほど遠い、濁った水なのが残念です。もう旧流は事実上死んでおり、大雨の時などに流れるだけのようなので、こ
のような状態になってしまうのでしょう。 ここは湘南海岸サイクリングコースという、鵠沼海岸から茅ヶ崎の柳島海岸(相模川河口付近)まで続くサイクリング ロードの入口にもなっていて、人が通れるようになっているのですが、橋の下は非常に高さが低いので、ここを通るときは頭 がぶつからないよう気をつけないと危ないです。 |
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H地点;片帆橋
旧流に架かる最後の橋、片帆橋です。 橋の右側には国道134号線、左側に行くと整備された海浜公園(湘南海岸公園の西端に当たります)に出ます。この公
園では、よく近所のお母さん達が小さな子供を連れて遊びに来ているのを見かけます。 サーフビレッジとは、湘南海岸公園を訪れたり、この付近の海岸でサーフィンやビーチバレーなどをする人たちのサポー ト施設です。これも、鵠沼海岸1 丁目のページに解説がありますので、ご覧下さい♪ |
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I地点;河口付近
引地川本流の河口付近です。左側から合流しているのが、先ほどから追い続けている旧流です。 ちょっと見ただけでは、何の変哲もない用水路のような感じですが、それが実は、さまざまな歴史を秘めた引地川の、歴 史の証人だったのです。 この風景のちょうど背後(つまり撮影している私の後ろ^^;;)には、これも鵠沼海岸2 丁目 のページでご紹介している聶耳(ニエアル;中華人民共和国国歌作曲者)記念碑があります。 |
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J地点;みどり橋跡・旧鵠沼橋親柱
最後に、この河口部で起きた最近の水害について、ちょっと触れておきましょう。 1990(平成2)年9月、折からの台風20号による集中豪雨で、引地川は大幅に増水しました。その流れの勢いは、
昭和7(1932)年、かつて国道134号線が湘南遊歩道路と呼ばれていた当時に架けられた鵠沼橋を、落橋させてしまっ
たのです。暴れ川の歴史を持つ引地川が、久しぶりにその本領(?)を発揮した出来事でした。 災い転じて福となすと言いますが、鵠沼橋落橋に伴い、県当局は橋の復旧と同時にそのころ進めつつあった134号線の 4車線化を一気に押し進めることとなり、1994(平成6)年3月、4車線化した現在の鵠沼橋が完成したのです。それに 伴い、みどり橋は新しい鵠沼橋の歩道部分にその役目を譲って、復旧することなく廃橋となりました。 今でもプールガーデン側の引地川の岸辺(画面では向こう岸)には、岸辺で途切れたサイクリングロードが残っており、
災害の爪痕を今に残しています。 現在は、引地川中流域の大庭付近に大規模な遊水池が整備されたので、こうした水害はもう起きないだろうと言われるよ
うになりました。 |
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(この項のまとめには、高木和男著「鵠沼海岸100年の歴史」(菜根出版)を参考にしまし た。) | |
「暴れ川」の証人たち−河岸に残る石碑の 数々
K地点;引地川堤防築造碑
これは、作橋と日の出橋の間、辻堂側の河岸に残る、引地川堤防築造碑です。 この碑は遠く江戸時代の、文化5年(1808年)、浅場太郎左衛門により建立されました。 |
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L地点;鵠沼耕地整理事業完成記念碑
これは、引地川本流の稲荷橋〜日の出橋間の、鵠沼海岸4丁目側に建つ「鵠沼耕地整理記念碑」です。 ここで「耕地整理」について、ちょっとお話ししましょう。 この耕地整理事業は、昭和6年(下でご紹介する、県によるこの付近の河川改修事業実施の前年に当たります)に開始さ
れたのですが、途中第2次大戦や、鵠沼海岸地区の宅地化の進展のため、なかなかまとまらず(本来は土地の権利関係の変更
を凍結して、その間に耕地整理事業を進めるべきところだが、宅地開発の要請がそうした措置をとることを許さなかったた
め、どんどん権利関係が複雑になり、問題が長期化した)、やっと昭和末期の61年になって、事業の完成を見たのです。 |
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M地点;引地川改修紀功碑
これは、鵠沼橋のたもとにある「引地川改修紀功碑」です。上でご紹介した引地川堤防築造碑よりはるか後年、昭和7年
から9年(1932〜34年)にかけて、当時の神奈川県と藤沢町の手により行われた、下流部の改修工事のことが刻まれて
います。 ちなみに、鵠沼橋の架橋も昭和7年なので、この改修工事と同時に架橋を行ったものと思われます。 |
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